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Keiichi Tanaami solo exhibition@Nanzuka galleryを サーチ!サーチ!サーチ!

NANZUKA UNDERGROUNDは非常にわかりにくい場所にあります↓
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このビルの地下にギャラリーがあるとは気付きにくいですよね。渋谷ヒカリエのすぐ裏手にあるから、好ロケーションには違いないのですが。ここで、田名網敬一氏の新作を見てきました。



新作のデジタルアニメーション「Red Colored Bridge」↓

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今回発表する新作のデジタルアニメーション「Red Colored Bridge」は、「この世とあの世を渡すクロスポイントとしての橋」についての田名網の様々な考察を表した映像作品です。「橋が内包する深遠で神秘的な世界は、私に複雑怪奇な謎を投げ掛ける。俗なるものと聖なるものの境界であり、今の世界と死の世界を分けるのが橋だとすれば、その一方で出会いの場所と言うこともできる。橋の向こうから幽かに響く歌声は誰が歌っているのだろう。その姿を見極めたい。橋の下にひっそりと広がる無限の暗闇、底知れぬほどの謎を秘めた神秘的異空間への興味は尽きる事がない」と解説しているように、田名網にとって赤い橋は、近年の田名網にとってそのイマジネーションの大きな原動力となっています。例えば、ここには田名網が幼少期に経験した戦争を連想するモチーフが幾多に込められています。光を放つ奇怪な生き物は、擬人化した爆弾と爆発の光。縦に伸びるビーム光は、アメリカの爆撃機を探す日本軍の放つサーチライト。画面中に登場する骸骨姿のモンスターたちは、戦争で傷ついた人々であり、同時に恐れを知らぬ私たち自身の姿でもあります。金魚をモチーフにしたキャラクターも多数登場します。これは田名網の脳裏に深く刻まれている原風景 - 祖父が飼っていた金魚の鱗にアメリカの落とした爆弾の光が乱反射する光景 -と深く関係しています。まるで動物的な生命を宿したかのように描かれている松は、田名網が44歳の時に胸膜炎を患い死にかけた時に見た幻覚に由来しています。 田名網の生み出す独自のキャラクターやモチーフは、田名網が日課として半世紀に渡って描き続けているドローイングにその原点があります。本展では、1980年代から現在に至迄田名網が描き続けてきた膨大な数のドローイングを可能な限り展示します。田名網が個人的に描き残した日記的なドローイングブックから、アニメーションの絵コンテ、実験的な線画、近年のペインティングに登場するキャラクターの原画まで多岐にわたります。田名網は、「ドローイングすることは至福の時間」だと語っていますが、今も1日8時間きっちりとスタジオで創作活動をこなす田名網にとってドローイングは食事と同様に、生活の糧なのです。

「私にとってドローイングすることは食べることと同じことかもしれない。色鮮やかな食卓をながめながら、空腹が満たされてゆく時のなんともいえない満足感と幸福感、ちっぽけな悩みなど一瞬にして消し飛んでしまう。筆から放たれた線描は、私の意志とは関係なく空間を自由自在に飛翔し、想像外の展開をみせるのである。目の前に散乱した多彩なドローイングをみていると、御馳走のならんだ食卓をみているような幸せな気分になる」。




とのこと。田名網氏の描く涅槃はネオンでギラギラした溶けたような妖怪がウジャウジャいるのかと思いました。上記記述にもあるように溶けた妖怪みたいなものは、漫画はだしのゲンで見た、核で焼かれた人間を彷彿とさせます。

ネオンカラーとキッチュなイラストでポップに描かれた田名網氏のキャラクターは油断すると、”グロかわいい”なんて女子が解説しそうなものですが、実際にこれらのアニメーション、イラストレーションは社会性を伴った、ポリティカルアートといっても過言ではないものなのかもしれないなと感じたのです。






田名網敬一
1936年東京の服地問屋の長男として生まれる。1945年、9歳の時に第二次世界大戦(東京大空襲)を経験する。この時脳裏に焼き付いた数々の光景は、田名網が後に描き出す作品の主要なモチーフを占める事になる。轟音を響かせるアメリカの爆撃機、それを探すサーチライト、爆撃機が投下する焼夷弾、火の海と化した街、逃げ惑う群衆、そして祖父の飼っていた畸形の金魚が爆撃の光に乱反射した水槽を泳ぐ姿である。

「食べたい盛り、遊びたい盛りの幼少年期を、戦争という得体の知れない怪物に追い回されていた私の見る夢には、恐怖や不安、怒りや諦めなどが渦巻いていたに違いない。そういえば空襲の夜、禿山の上から逃げ惑う群衆を眺めていたことがある。だが、ふと私は思うことがある。あれは現実に起こったことなのだろうか。私の記憶では夢と現実がゴッチャになって、曖昧なまま記録されているのである。」(田名網敬一)

幼少期より絵を描くことが好きだった田名網は、中学生の頃に戦後を代表する漫画家、原一司のアトリエに出入りし漫画家を目指すようになる。しかし、原の突然の死により、以後漫画の草分け的分野であった絵物語作家の道を目指すようになり、やがてプロのアーティストになるべく武蔵野美術大学へ進学する。その才能は学生時代より広く知られ、在学2年生(1958年)の時にイラストレーション、デザインの権威団体の主催する展覧会(日宣美)で「特選」を受賞する。卒業後、一度は広告代理店に就職するも、個人への仕事のオファーが多すぎて1年足らずで退社。その後60年代を通して、イラストレーター、グラフィックデザイナーとして多忙な日々を過ごす傍ら、戦後日本を象徴する芸術運動の1つであるネオダダイスムオーガニゼーションと行動を共にし、60年代半ば以降当時アートとしては最も新しいメディアであった映像作品の制作にも没頭する。

「1960年代、赤坂の草月会館では様々なジャンルを越境し横断するイベントが定期的に開かれていた。小野陽子のハプニングやナムジュンパイクのビデオやアメリカの実験映画などが次々に登場した。そんなとき、「アニメーションフェスティバル」(1964年)が開催されるというニュースを聞いた。なんとしてもアニメーションを作りたかった私は、久里洋二の実験漫画工房に強引に頼み込み、『仮面のマリオネットたち』(35mm、8分)を制作した。その後も、『Good by Marilyn』(1971)、『Good by Elvis and UAS』(1971)、『Crayon Angel』(1975)、『Sweet Friday』(1975)と私のアニメーション制作は続いた。」(田名網敬一)

1967年、初めてのNY旅行を経験する。このとき、アメリカの消費社会の繁栄の渦の中にあって力強く輝くウォーホルの生の作品に触れた田名網は、デザイナー活動の中にアートの新たな可能性を直に感じる。
「その頃のウォーホルは、商業美術家であるイラストレーターからアーティストに移行する過程の時期で、美術の世界に切り込んでいった彼の取った戦略を、生の場所で観察・体験したのです。そこで感じたことは、彼が取った戦略というのは、広告代理店の広告戦略そのものだったということです。つまり、作品のモチーフに時代のアイコンを使ったり、活動に映画、新聞、ロックバンドなどのメディアを複合させ、ウォーホルの存在=作品を美術マーケットに売り込んでいく、ショックを受けたと同時に、彼を自分にとってちょうど良いモデルケースとして捉えた。ウォーホルのようにやりたいことはファインアートやデザインといったひとつのメディアに限定せず、いろいろな方法でやっていこうと思った」(田名網敬一)

サイケデリックカルチャーとポップアート全盛期の当時、田名網のポップでカラフルなイラスト、デザインワークは、国内外で高く評価され、1968年AVANT-GARDE誌主催の「反戦ポスターコンテスト」 で入賞した作品「NO MORE WAR」や、伝説的バンド、モンキーズやジェファーソン・エアプレインのジャケットワークなど、「サイケデリックアート」、「ポップアート」の日本への導入に重要な足跡を残す作品を手掛けている。また、ハリウッド女優などをモチーフにして描かれた70年代初めのエロティックなペインティングのシリーズは、アメリカ文化をウィットに富んだ視線で捉えた日本人アーティスト田名網の告白を示す重要な作品である。

田名網は、その後1975年に、日本版「月刊PLAY BOY」の初代アートディレクターに就任するに当たり、「PLAY BOY Magazine」本社を訪れるべく、再びNYに渡っている。この時、田名網は現地の編集者の案内で、アンディ・ウォーホルのスタジオを訪れている。この頃の田名網の作品は、映像とプリントワークを中心に、挑戦的で実験的な作品を数多く製作しており、特にその映像作品は、ドイツのオーバーバウゼン国際映画祭(75年、76年)やニューヨークフィルムフェスティバル(76年)、「オタワ国際アニメーションフェスティバル」(カナダ、1976年)などで上映されるなど高い評価を得ている。また、1976年に行われた展覧会「恋のスーパーオレンジ」(西村画廊)は、その前衛性ゆえに、個展初日に警察の立入検査によって差し止めにあった。

1981年(45歳)、肺水腫を患い、生死の境を彷徨う。この経験から、80-90年代を通して、田名網は「生と死」をテーマにした作品を数多く残している。例えば、以後の田名網の作品に頻繁に登場する松の造形は、闘病中に田名網が見た幻覚のイメージに基づいている。同様に、鶴や象といった生き物や裸体の女性などと共に登場する螺旋や建築的造形といった箱庭的なモチーフも、この頃の作品の特徴である。
1999年、田名網の60年代の作品にフォーカスを当てた展覧会が、ギャラリー360°(東京)で開催される。この展覧会を、ヤマタカEYE(ボアダムス)や、KAWSといった1960年代以降に生まれた新しい世代のカルチャーリーダーが高く評価した事から、田名網敬一の作品は再び若者たちのカルチャーシーンに登場し広く支持を受ける。2005年より、ファインアートシーンにおける新作を発表。人格化した金魚、畸形のキャラクター、光線、螺旋の松、奇想的建築、少女など自身の記憶や夢の世界をペインティング、立体、映像、家具など様々なメディアで表現している。
また、1991年より京都造形芸術大学教授に就任し、束芋などの若手作家を育成。近年の展覧会に"Day Tripper", Art and Public Geneva,2007, "SPIRAL", Galerie Gebr.Lehmann Berlin,2008、 "Kochuten",NANZUKA UNDERGROUND,2009、 "Still In Dream",Frieze Art Fair, 2010、"No More War"Art 42 Basel,2011など。




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サーチです。
サブカルチャーに憧れた思春期を過ごし、ロンドンの某芸術大学の門をたたく。その後、メジャーとサブカルの両方をこよなく愛するように。世界中のアート、音楽、ファッションをちょっぴりサブカルの視点から紹介します。アートは若葉マークにつきご注意下さい。

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